『ミチクサ先生・上下』伊集院静著 『決定版 夏目漱石』江藤淳著 『夏目漱石を読む』吉本隆明著
どうも今まで思い描いていた夏目漱石像と違う。伊集院静さんの『ミチクサ先生(上下)』(講談社、2021年)のことだ。神経症と胃潰瘍に苦しんだん文豪はそこにいない。同書は愛妻物語であり、師弟愛の物語である。漱石好きの記者は、本当にこんな幸せな人生だったらよかったのに、と小説として大変楽しく読んだのだが、従来の漱石像との間に違和感が残った。
漱石研究の白眉、江藤淳著『決定版 夏目漱石』(新潮文庫、1974年)と吉本隆明著『夏目漱石を読む』(ちくま文庫、2009年)に立ち返ってみた。江藤氏は「猫、坊ちゃんは、なによりも自分の神経衰弱から逃れたい、気晴らしがしたい一念で書いたのです」と言い切る。吉本氏も「精神の逃げ道の一種という意味を持っただろうとおもわれます」と同意見だ。漱石に関しては「僕は今でいうパラノイア(妄想性障害=記者注)だと思うんです」とまで言っている。
記者は吉本氏風にこう言ってみたくなる。
「僕は今でいうジャーナリングだと思うんです」
ジャーナリングとは、「書く瞑想」ともいわれるメンタルヘルスケアだ。頭に浮かんだことを書きつけるマインドフルネスの一種だ。「今、この瞬間」に集中することで、ストレスの軽減や集中力アップなどに効果的といわれる。モヤモヤを解消できたり、堂々巡りから抜け出す効果がある。ストレスが高まったとき、記者もこの方法を活用している。漱石は作中、猫にこう言わせている。
「主人の様に裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかもしれないが、我等猫族に至ると…」
ジャーナリングで心の平安を得た漱石は、朝日新聞社の入社の辞で「何か書かないと生きてゐる気がしないのである」とまで思い込む。江藤氏が解説する。
「彼は、小説を書くことによってこの悲惨な状態から立ち直っていきました。ものを書き、人に読んでもらうということは孤独な人間にとっては、自分と外界とのつながりを取り戻すことです。そのつながりを漱石は、小説を書くことによってやっと取り戻すことができた。そのとき彼には『小説家』という新しい役割が与えられたのです。そしてそれ以降彼がだんだん小説家として成熟していくにつれて、ついに漱石は彼が発見したところの自我の問題を、自分の小説のテーマに据えるようになった」
漱石に伝えてあげたい。「あなたは100年後の人たちともつながっていますよ」と。漱石の足元にも及ばないが、物書きにとって、書くことは生きることだと思う。このブログも一種のジャーナリングであり、社会とつながるツールなのだと思って書いている。(了)