『スピノザの診察室』(夏川草介著)
夏川草介さん著『スピノザの診察室』(2023年10月、文藝春秋)。タイトルに惹かれて手にした。「スピノザ」。関心はありつつも敬して遠ざけてきた。それが読みやすそうな医療小説のタイトルになっている。スピノザ入門のよいとっかかりになりそうだ。読まない手はない。
消化器内科の凄腕でありながら、優しさを併せ持つ、ひょうひょうとした雰囲気の医師マチ先生が主人公。京都の町中の地域病院で働いている。治療よりも看取りが中心だ。そこで医療に取り組む際の哲学として、スピノザが引用される。「できることはない。だからこそ努力する」。死を前に無力感や諦観の中に灯りをともし、幸せとは何かを問う。
文中、スピノザについて触れられる箇所は少なく、タイトルに使うのはミスリードな感じもするが、舞台となる京都の街、甘味といった小道具が視覚や味覚にも訴え、楽しめた。
本書がきっかけとなりほかの何冊かを手に取った。こうして次から次に読みたい本が出てくるのも読書の楽しみである。1冊目は同じ著者のデビュー作『神様のカルテ』。初期の夏目漱石を模した文体が新人らしくみずみずしい。あとは、スピノザの「エチカ」と言いたいところだが、まずは國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(講談社現代新書)と『スピノザ―読む人の肖像』(岩波新書)の2冊だ。入門書なのに難解だった。ついて行くのがやっと。いや、どこまでついていけたか心許ない。
スピノザ哲学の難解さについて、『はじめての…』では「OSが違うからだ」とあった。母が他界したときのことを思い出した。母はホスピスで逝った。医師が言った。「安らかに旅立っていかれました」。「残念ながら…」などと言う言葉はない。69歳とまだ若く、後悔は残った。でも、死をことさら否定的に受け止めることはなかった。正に医療のOSの違いに救われた。『スピノザの診察室』は続編も計画されているという。2つのOSを使いこなせるマチ先生の活躍に期待したい。(2024.08.17 No.138)