本のこと

身近なストレッチゾーン

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『バリ山行』(松永K三蔵著)

 「そこに山があるからだ」―。エベレストで命を落としたイギリスの登山家ジョージ・マロリーが山に登る理由を聞かれて答えた言葉だ。分かったような、けむに巻かれたような。いや、全く分からない。


 低山にはときどき登る。気持ちがいい。命を賭すような山には登れないので、小説や体験記を読んで理解しようとしてきたのだが、どれもピンとこない。2024年上半期(第171回)の芥川賞受賞作、松永K蔵さんの『バリ山行』(講談社、24年7月)はそのヒントを与えてくれた。

 山登りに魅せられた30代の男性会社員が、毎週ひとりで「バリ山行」をしている同僚と出会い、自分自身を見つめ直していく物語だ。通常の登山道ではないルートをたどるバリエーション登山のことで、小説の舞台となった六甲山のような身近な低山でも一歩ルートを外れることで非現実的な冒険になる。


 その同僚が言う。「それでも確かなもの、間違いないものってさ、目の前の手掛かりとか足掛かり、もうそれだけ。それにどう対処するか。これは本物。…実体と組み合ってさ、やっぱりやるしかないんだよ」


 登山家たちが求めているのは、自分の能力のすべてを使って自然と対峙することにより生まれる「生の実感」なのだ。頼れるのは自分だけ。その場を切り抜けることが全て。雑念は浮かなばい。マインドフルネス。素人が一足飛びにエベレストに登る気持ちを理解するのは難しいが、低山のバリなら記者にも想像できる。実力以上のストレッチアサインにならず、コンフォートゾーンから少し背伸びすれば届く身近なストレッチゾーンだからだ。お陰でマロリーの気持ちに少し近づけた気がする。(2025.03.01 No.158)

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