本のこと

フィクションの可能性

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『藍を継ぐ海』(伊与原新著)

 盛夏のこの時期になると、取り出す本がある。広島原爆を記録した原民喜著『夏の花』、大江健三郎著『ヒロシマノート』。日航機墜落事故をモチーフにした横山秀夫著『クライマーズハイ』。終戦の日を再現した半藤一利著『日本のいちばん長い日』の4冊だ。今年は終戦80年、事故から40年の節目の年でもある。


 この夏、記者に欠けていた長崎原爆を描いた1編を読んだ。伊与原新さん著『藍を継ぐ海』(2024年9月、新潮社)所収の「祈りの破片」だ。地質学者だった長岡省吾広島平和記念資料館初代館長が被爆直後の焼け跡から資料を収集し原爆の研究を続けた活動に着想を得たという。

 長崎県長与町の空き家対策を担当する職員が、ある空き家に大量に残されたがれきの謎を追う。長崎原爆では浦上天主堂と多くのカトリック信者が被爆。自らも被爆しながら救護に奔走した永井隆医師が浦上の被爆を「神の摂理」と語ったことを軸に、キリスト教が原爆にどう向き合ってきたかにも思いを馳せる。伊予原さんは推理小説でデビューしており、本編はミステリーとしても楽しめる。


 戦後80年。当時を知る人たちが高齢化し、生の証言を得る記録文学はどんどん難しくなっていく。だが、史実に基づくフィクションという形なら、語り続けることはできる。死者と向き合うことも可能だ。本書は小説という文学形態の可能性を再認識させてくれる。まだまだできることは多いと感じる。

 日本人として忘れてはならない8月。良い本に出会えた。読み継がれる本になるといい。それに、伊予原さんは地球惑星科学の研究者出身。46億年の地球の歴史から見れば80年は一瞬。科学を切り口にいろんな世界を見せてほしい。(2025.08.03 No.174)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加