本のこと

「体験てぇもんが生きてくる」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『今日も寄席に行きたくなって』(南沢奈央著)

 女優で南亭市にゃおの高座名を持つ南沢奈央さんの『今日も寄席に行きたくなって』(2023年10月、新潮社)を読んだ。いつまでも落語初心者のままの記者にとって、落語の魅力を再確認できる、みずみずしいエッセイ集だ。

 みずみずみずしさの源泉には2つのキーワードが挙げられる。

 一つは「体験」だ。ブログのタイトルに引用した「いやァ、体験はするもんですな。落語の中に、体験てぇもんが生きてくる」という古今亭志ん生の言葉だ。大学の卒業論文に落語を取り上げたという南沢さん。本書は、頭で考えただけでなく、女優業や高座、プライベートでの体験をベースにしている。体験はその体験をしたものにしか書けない。だから、そこから生まれる文章は一般論にはない説得力を持つ。「紺屋高尾」で年季が明けた高尾太夫の一言「久さん、元気?」には「I Love you」の意が込められているという一文には大きくうなずいた。

 もう一つのキーワードは「等身大」だ。高座に上がる市にゃおさんが「落語は等身大でやる」と悟る場面がある。前書きには「落語によって心動かされた瞬間を、切り取りました」とある。自分が心動かされないものは人にも伝わらない。記者の仕事も同じだ。背伸びをした借りものではない文章だから共感を得る。等身大の感性で自身が心動かされたものを自分の言葉で書くからこそみずみずしい文章となる。本書は落語の魅力とともに人に伝えるための要諦を教えてくれている。

 なお、本書の装丁は地味だが、タイトルの間にあしらわれた2つの扇子の絵がチャーミングで気に入っている。(2024.1.22 No.112)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加