学校教育

においを見聞きする

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『香君』

『香君』(上・下)上橋菜穂子著

 待ってました!上橋菜穂子さんの7年ぶりの新作である。どの本も「次はどうなる、次は…」と夢中でストーリーを追っているうちにあっという間にラスト一歩手前。そして、お話が終わるのが残念で仕方なくなり、「もっと続いてほしい」と思ってしまう。


 今回も期待に違わぬエンターテイメントだ。『香君』(上・下)(文芸春秋、上435ページ、下461ページ、各1870円税込)は、「香り」と植物や昆虫の生態をテーマに描くファンタジー。遥か昔、神郷からもたらされ奇跡の稲により、ウマール人は帝国を作り上げ、発展を続けてきたが、あるとき、虫害が発生してしまう。そこへやってきた人並外れた嗅覚を持つ少女アイシャが稲に秘められた謎と向き合っていく。


 もちろんファンタジーとしても読めるが、科学ミステリー、諸葛孔明ばりの切れ者が知略を尽くす政治スリラーとしても楽しめる。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮文庫)を思い出したりもする。


 そんな中で、記者が注目したのはアイシャが繰り返す次の言葉だ。
 「香りがうるさい」
 比喩ではない。こんな記述がある。
 《目を閉じてそれらの匂いを嗅いでいると、匂いに刺激されて、鮮やかな光景が次々と脳裏に浮かんで消えていく。》


 アイシャはほかの人には理解できない感覚に悩みつつも、その感覚を武器に真相に迫っていく。ファンタジーだからと読み飛ばすこともできるが、アイシャは「共感覚」の持ち主と読める。ある一つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚も生じる知覚現象のことで、現実にさまざまなバリエーションの共感覚が確認され、研究も進められている。アイシャの場合は嗅覚で感じたことを聴覚や視覚でも感じる。記者は共感覚の持ち主を取材したことがある。


 フリースクールに通うHさん(当時中学3年生)はある踊りのような授業について「音楽で空気の色が変わるのが楽しくて」と話してくれた。空気の色が変わる?
 Hさんの隣にいたTさんも「色が変わるの分かるよね」
 教師に「この曲の色って、何色だと思う」と問われた2人はそろって「クリーム色」と答えている。


 2人は色聴の持ち主かもしれない。音を聴くと色が見える。固有の色彩をイメージする。聴覚と視覚が連携しているためとされ、音楽心理学では20世紀初頭からさまざまな研究が行われている。周波数構造と色がどう対応するかといった生理的メカニズムは科学的にはほとんど解明されていない。100人に1人とも言われる。


 Hさんの母親は「娘は色が見えているのだと思います」と言う。「自分が舞っている際に心の中で『あ、緑色だ』と感じ、その空気感を楽しんでいるようです。うまく言えませんが、見えると言うより、分かるということかな。この感情にはこの色、このシーンでどうしてこの色で表現されるのか、とかいうことに強い関心があるようです」


 Tさんの母親は絶対音感を持っていた。絶対音感とは、他の音と比較することなく、聞いた音に対し各々の音名を想起できる能力だ。先天的なもので、小さい頃から一度音楽を聴けば、楽譜が無くてもピアノで奏でることができた。救急車のサイレンなど身近な音を弾いてみて、と友人から頼まれれば、再現することができた。いつ頃からか音に敏感なことに苦しくなり、意識的にその回路を閉ざすようになったという。


 色聴は絶対音感を持つ人に多いとされるが、遺伝なのか後天的なものなのかも分かっていない。母娘でこんな会話をしたことがある。
 母「文字からも色が見えたりするの?」
 娘「友達とおしゃべりをしている時に、その言葉から色を感じることは全くないよ。でも、詩や和歌には色があるね」
 母「どうしてかしら」
 娘「詩や和歌は言葉だけど、音楽だからかな。あと、絵だからかな」
 詩や和歌は音楽であり、絵である。だから色を感じる。2人とも芸術的なセンスに優れた子だった。2人はもう20歳前後になる。あの感覚は今もあるのだろうか。アイシャのように自分の能力を活かし続けているのだろうか。


 そういえば、直木賞受賞作品『塞王の楯』(今村翔吾著、集英社、560ページ、21年10月、2200円税込)の主人公も共感覚の持ち主なのかもしれない。「絶対に破られない石垣」づくりを目指す匡介は「ただ、(岩や石を)見ていれば声が聞こえるような気がする」と語る。


 匡介の師匠のこんな解説がある。《石が呼びかけてくるのだ。厳密には呼びかけてくるような気がするのである。実際に石が声を発する訳がないことは解っている。これは子どもの頃からそうであった。源斎に言わせるとこれは、優れた耳を持っているのではなく、特殊な眼を持っていることに起因している》


 『塞翁…』については機会があればまた綴ってみたい。(了)

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