本のこと

野心作、再び

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『生殖記』(朝井リョウ著)

 好きな作家かと問われれば、そうでもない。でも、ついつい読んでしまう。前著『正欲』から続く実験的な野心作だった。朝井リョウさん著『生殖記』(小学館、24年10月)だ。前著からのテーマである多様性と共同体の圧力に加え、今回は資本論、文明論、生物論、進化論、幸福論、世代論、構造主義…にまで言及している。ユニークな語り手がそれらを考察することにより、とっ散らかることなくまとまっていく。アイデアと力技の勝利である。


 主人公33歳独身の尚成は家電メーカーの総務部で働いている。同性愛者だ。それを隠して生活している。記者が注目したのは、尚成の趣味だ。甘いお菓子をつくり食べ、それを体を動かして消費する。何の生産性もない。だが、「カロリー消費のために身体を動かしている間は、拡大も発展も成長も、思考も言語化も何もかも遠く離れてくれる」。


 「気づいたらかなりの時間が過ぎてしまっていた、という感覚をひたすら繋いでいくことが、今の尚成にとっては幸福そのものなのです」。米心理学者チクセントミハイ氏は「没入体験こそ幸福である」と言う。没入による多幸感は記者も実感しており、尚成の気持ちはよく分かる。尚成は性自認に基づく生きづらさから「拡大、発展、成長」という資本主義の目標に背を向けたお陰で「幸福」になる方法を見つけたというのが面白い。

 本書はユニークな語り手を得てコミカルに進むため、LGBTQ(性的少数者)の生きづらさについては見逃しがちだ。本書を読んだ後にLGBTQについて取材した。支援団体の調査によると、10代のLGBTQは、過去1年で19.6%が自殺未遂、42.2%が自傷行為を経験し、57.8%が心身不調や精神疾患を経験していたという。そんな実態があることも忘れてはならない。(2025.06.22 No.172)

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