本のこと

バランス感覚

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『イン・ザ・メガチャーチ』(朝井リョウ著)

 「時代の空気を標本にする」のだと言う。朝井リョウさんだ。標本は希少性により価値が増す。だから、人とは異なる性的嗜好だったり(『正欲』)、同性愛の男性(『生殖記』)が標本になった。最新作『イン・ザ・メガチャーチ』(日本経済新聞出版、2025年9月)では、「推し活」が展翅板に留められた。推し活が創り出す「ファンダム経済圏」を、トランプ米大統領の支持母体とされるキリスト教福音派がライブのような礼拝を行うメガチャーチ(大教会)になぞらえた。


 還暦間近の記者が、今の「時代の空気」を読むにはスマホが必須だ。メガチャーチを含めネットや推し活界隈で使われている現代用語を検索しながら読んだ。本書は、ファンダム経済の仕掛けを「構築する側」「仕掛けられる側」「かつて深くのめり込んでいた側」の3つの視点で描かれている。構築する側の中年男性の一言や考えが深く突き刺さるのはもちろん、仕掛けられる女子大生、かつて深くのめり込んだ30代非正規女性にも共感できるから不思議だ。朝井さんは〈受け手の自他境界を曖昧にして、没入と視野狭窄を煽る〉物語づくりがうまいのだ。


 時代の空気をまといつつも、テーマは前著に続き哲学的、根源的だ。どう生きるか。我が娘も含めアイドルに夢中になったり、陰謀論や怪しげな宗教にはまるったりする人の心理は正直よくわからないのだが、娘はお気に入りのアイドルがテレビに出ているのを観るときは幸せそうだ。ハンガリー出身の米心理学者ミハイ・チクセントミハイは「没入体験こそ幸福である」と主張している。没入する対象が人それぞれ違うだけかもしれない。仕事や記者にとってのこのブログ、朝井さんにとっての小説執筆、オリンピアが、テレビ視聴者にはルールの分からない競技に心血を注ぐのだって変わらない。本人には至福でも関心のない人からすれば???である。


 「没入=幸福」の最中はバランス感覚を失いやすいから要注意だ。主人公3人はある意味病んでもいる。かつて深くのめり込んだ女性は全てを失くし今後どう生きていくのだろうか。若い頃は仕事に没入した、構築する側の中年男性もある出来事をきっかけに再び没入対象を失くす。そんな中で目を惹く健全な登場人物が一人いる。仕掛けられる女子大生のバイト先の友人ユリちゃんだ。


 就職する気は無くバイトを転々とするユリちゃんは〈どんな環境でも生きていけるという自信〉と〈今後どう環境が変わったとしても、そのたび適応しながら乗りこなせるだろうという、生きものとしての強さとしなやかさ〉を持つ。そのユリちゃんが、内向的な性格を気に病んでいる主人公の女子大生に対し、こう助言する場面がある。


 〈「直すっちいうより、しんどさを解消する方法を一個でも多く見つけておくほうがいいんやない?」〉ポイントは「一個でも多く」だろう。単線運転では本書の主人公らのように喪失感に押しつぶされかねない。視野狭窄を煽られて本書を読み終え、冷静になってみると、記者にはバランス感覚に裏打ちされたこの一言が金言として残った。(2026.02.15 No.190)

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