『沙林 偽りの王国』(帚木蓬生著
オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)元代表=2018年の死刑執行時(63)=がサリンに初めて言及したのは、1993年4月、高知での説法だった。帚木蓬生さんの『沙林 偽りの王国』(新潮社、2021年3月)を読んで初めて知った。ちょうどその当時、駆け出しの記者は高知に赴任した。松本サリン事件が94年、地下鉄サリン事件が95年。その後、空気清浄機の一部と思われるダクトが幾つも突き出た高知支部にも強制捜査が入り、取材した。
本書は長女の本棚に並んでいた。長女は医療系の学校に通っており課題図書になったのだという。なるほど、29人の死者と6500人を超える負傷者を出した平成最悪の一連の事件を未知の毒と闘う医療従事者の目を通して描いている。事件当時の医療現場の様子や毒物についての知見だけではない。主人公である毒物学の権威の大学教授が、まだ元気があった頃の報道を紹介する形で事件の概要を追う。また、捜査当局に求められ意見書を書いたり、授業で取り上げたりすることで、毒物の歴史や731部隊の説明から教祖が起訴された17の事件の顛末までを576ページの大部にまとめている。小説というより「オウム」の全貌を書き下ろした記録集と言った方がいい。
事件・事故とはあまり縁がなかった記者は、冒頭で触れたように一連の事件について本書を読んで初めて知ったことも多い。例えば松本事件は事件そのものより、被害者が犯人扱いされた警察の捜査や報道の杜撰な在り方の方が記憶に残っている。
事件は教祖らが口を閉ざしたまま死刑が執行されたため、警察庁長官狙撃事件など全体像はいまだ明らかになっていない。そしてもう一つ、帚木さんが指摘する通り「高学歴の連中が何故いとも簡単に洗脳され、やみくもに殺人兵器を作成したかについては、何ひとつ解明されていない」
本書は洗脳について「理系の人間は、科学的な素養から離れて、一足飛びに超現実的な解脱や人間救済の思想に飛びつきやすい」、後記でも「外部と隔絶された空間で、四六時中、単純な論理を繰り返し吹き込まれると人は誰でも洗脳される。(中略)むしろ偏狭な専門家であればあるほど、洗脳される」と部分的には触れているが、一般論の域を出ていない。帚木さんは作家であるとともに精神科医でもある。是非、精神科医の視点で書かれた洗脳のメカニズムを解明する一冊を読んでみたい。(2023.06.16)