『街とその不確かな壁』(村上春樹著)
村上春樹さん話題の新刊『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年4月)は、まさに「読書体験」だった。「村上春樹の秘密の場所」を登場人物たちと巡る、夢見るような時間だ。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェーの森』『羊をめぐる冒険』といった過去作を繰り返すモチーフ、構成、登場人物が散りばめられ、初期作品のファンにはたまらない既視感を堪能できる。
「初期作品のファンには」と書いたのには理由がある。実は記者は『ねじまき鳥クロニクル』あたりから村上作品を理解できなくなっている。独特の文体と世界観に引き込まれはするのだが、期待を持って大作を最後まで読んだのに、回収されない伏線と唐突な終わり方に突き放されたようで、読後「えっ?」と声を上げ悶々としてしまうことがたびたびだった。「村上さんの無意識の世界だからな」と自分を納得させながら。
その点、本書は既視感を楽しませてもらった上に、「針のない時計」の意味まで丁寧に描かれている。どちらが好きかと言われれば迷わず前述の3作品を上げるが、『街と…』は、「余韻」と感じられる終わり方で、最近の村上作品に比べると、作者が読者の近くまで降りてきてくれた親切な仕上がりになっている。
気になったのは、あとがきで作家は「限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけ」と記している点だ。一方で本書の主人公は「私はやはりこの街を出て行かなくてはならない。次の段階に移っていかなくてはならない」と心を決めるシーンがある。作家の成熟と次の展開を感じさせる台詞だ。出版されれば自動的に手に取ってしまう村上作品。やれやれ。今から次回作が楽しみだ。(2023.07.14)