『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志・伊藤亜衣著)
若い同業者が書いたルポルタージュ。『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志・伊藤亜衣著、2022年11月、毎日新聞出版)を読んだ。新聞広告で何度も目にしていた本を手に取った。不思議な本だった。
行旅死亡人とは、本人の身元が判別できず、遺体の引き取り手がない死者を指す法律用語だ。「現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性、一体誰なのか」。取材過程を記者の1人称で綴っている。警察も探偵も明らかにできなかった身元を、遺品の印鑑に刻まれた珍しい姓を手がかりに特定する。基本に忠実に端緒をつかみ、根気のいる作業をやり通したことに頭が下がる。だが…。
途中、デスクが若い記者にこう諭す場面がある。「何かしらわかりやすい社会問題に絡んでないと、記事として社会に対して問題提起しにくいよねぇ」。同意見である。北朝鮮のスパイ説や未解決のグリコ森永事件との関係をにおわせながら、何も新事実は出てこない。分かったのは身元だけ。これで終わり?と思った。『その名を暴け #Me Tooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』とは異なる。さらに身元を明らかにするのはいいが、一般市民の過去を調べ報道することにどんな意味があるのかと違和感が残った。
横浜・寿町のドヤ街を取材したことがある。多くの人は過去を語りたがらなかった。「親戚とはもう何十年も会ってない。俺ももうすぐ久保山だよ」と。久保山とは横浜市営の墓地のことで、死ねば無縁仏になるという意味だ。実際、取材後に亡くなったと連絡を受け骨を拾わせてもらったМさんも、その後、親族が遺骨をどうしたかは不明のままだった。彼らは親族の眠る墓に一緒に入りたいと思っているわけではなかった。それに人には知られたくないことがある。ましてや公にされることなど誰も望まない。
一方で、本書には報道の新たな可能性を感じた。本書はネットに配信された記事をもとに書籍化された。新聞への掲載は前述の理由で難しいが、ネット記事ならではだ。それが多くの人に読まれ、書籍にまでなって版を重ねているという事実は何事にも代えがたい。古い世代の記者がずれてしまったのだろうか。ただ、読者は金太郎あめのような記事ではなく、一人一人の記者が取材した個性ある記事を求めているのは確かだ。そこにこそ報道の生き残る道があると示している。(2023.10.08 No.91)