本のこと

読者の想像力

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『火車』(宮部みゆき著)

 宮部みゆきさん著『火車』(新潮文庫)は1992年7月の作品。当時、記者は社会人2年目。1年間の内勤を経てちょうど現場に出た年だ。


 休職中の刑事が、遠縁の男性の婚約者を捜すストーリー。婚約者は自らの意思で失踪、しかも徹底的に足取りを消していた。そこにクレジットカード社会の犠牲ともいうべき自己破産が絡む。以前読んだノンフィクション『ある行旅死亡人の物語』の中で触れられていたので手に取った。同じ人探しの物語だが、本書はフィクションである。


 記者は入社数年後にノンバンクを担当した。その際、宮部さんが本書のあとがきに名前を挙げている弁護士にインタビューしたことがある。作中の刑事同様、NTTの電話番号案内を使ったり、他人の住民票をとったりアナログな取材をしていた。今では考えられない個人情報とコンプライアンスに対する意識の低い、牧歌的な時代でもあった。


 本書は失踪した女性ともう一人の女性が事実上の主人公だ。行方を追う刑事は語り手に過ぎない。だが、その主人公は唯一の例外を除き、刑事が調査の中で関係者から得た証言の中にしか存在しない。伝聞情報だけで、作者はキーマンの人物像を造形していくという手法をとった。それが本書成功の鍵のように思う。


 刑事は小さな手掛かりを元に2人の足取りを追う。前半であっと驚く仮説が提示され、その仮説を裏付けていく。小説の視点はこの刑事のものだけだ。読者には、刑事と同じ不完全な情報しか与えられない。だから否が応でも伝聞情報だけの靄に包まれたようなあいまいな主人公の姿を、過去を想像する。この小説の原動力は読者の想像力である。そんな想像力を最後まで引き出し続けた著者の力量は想像を絶する。(2023.11.18 No.101)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加